広島市内路上観察 福山鞆の浦広島市内を路上観察。時間が少し取れたので、広島の繁華街である本通りから広島駅まで久し振りに歩いてみた。約1時間の道のりの途中、左手に写真の稲生神社を発見。 ところが、これが良く観ると、寄進者として平成17年1月「水木しげる」「荒俣 宏」「京極夏彦」とあるではないか。下記写真参照。 うへ~、こんなところでお三方のお名前を発見するとは思いませなんだ。由来が書いていないので、この神社の詳細は不明なのだが、名のある神社に違いなさそうである。もちろん、即、お参り。ご利益(ごりやく)、ご利益。 これぞまさしく路上観察の愉しみなのじゃ。水木さん、荒俣さん、京極さん、ありがとう。 広島4月道中編(前編) 今回の帰省で、1日だけ旧市内に出る機会があった。 広島市内の市電をパチリ(上の電車に乗った)。この旧式タイプの市電は廃車が続いているため、現役で走っている電車はほとんど残っていないようだ(先日放送されたテレビによると、2台位だったような気がする)。実際に原爆を経験した電車である。廃車にするのは如何にも惜しい。 久し振りに原爆ドームもパチリ、広島市民球場もパチリ。本通商店街もパチリ。 それにしても、新生カープへの広島市民の思い入れは強い。至る所にカープの応援がある。アストラム・ライン(モノレール)駅構内、広島駅構内でのスナップ、某広島資本の百貨店でのカープ・グッズ・カタログである。 病院で心強かったのが、患者はもとより医者、看護士、ヘルパーの全員がカープ・ファンだったことである。 挨拶は「カープは弱いですねえ」だ。母の言語療法時のセリフにも、「勝った、勝った、カープが勝った」とか「負けた、負けた、カープが負けた」というのがある。本日現在、勝率は.350(7勝13敗)だから、3試合に1回しか勝っていない勘定だ。 それでも回りはほぼ全員がカープ・ファンなので、不思議と弱気にはならない。本当のファンばかりだからである。本当のファンとは、負けていても応援していればいつかは勝つ、今は仕方がないという心意気である。 これは、つまりカープが生活の一部なのである。特に、原爆で荒廃した焼け野原から立ち上がった広島市民を精神的に支えたのがカープだったという歴史的事実を考えれば尚更である。したがって、万が一プロ野球が1リーグ制になって、カープ球団が廃止などになったら、間違いなく暴動が起きるであろう。ただし、この感覚は中年以上までかもしれない。 併し、カープは今年も弱い。悪女の深情けは続く。 広島4月道中編(後編) 病院の側の民家の庭先で芝桜を見つけた(写真)。春先である。気候が良くなっているので、至る所に花を見つけることが出来る。 石楠花(しゃくなげ)は、病院の裏手の土手に上品に咲いている。病院の外や屋上にも花が一杯である。 おっと、花より団子と言えば、病院の側にあるおいらの贔屓のラーメン屋(安佐南区38号線沿い「セブン・イレブン」を左折してすぐの某店)が改装して、メニューのラインアップが増えていた。 写真は、唐揚げセット・メニューである。美味である。ここのラーメンは前にも書いたが、イリコ(瀬戸内海独特の小魚)の出汁が効いており、ことのほか旨い。癖になりそうである。 本通り裏手の絵画材料店で、岡本太郎の展覧会が開催中であることを発見する。東京の常設館に行く機会が中々ないが、こういうところで太郎氏に会うのもまた格別であろう。 さて、広島本通り某所で晩飯を食す。とてつもなくデカイ麒麟麦酒のデモンストレーション用のビール瓶(隣の一升瓶よりデカイ!)をお店の片隅に発見。嬉しい。 ここのお通しの牡蠣は旨かった。店主によると、牡蠣の時期はもう最後らしいが、美味いものは至る所にあるものである。 広島の夜は深け行く。 もみじ饅頭 土曜日なので、気軽な話しを一つ。 おいらの生まれた広島の名産、「もみじ饅頭」。 その命名の由来である。 明治時代に宮島を訪れたある人物が茶屋の娘の手を見て、「もみじの形をした菓子を焼いて食べたら、おいしかろう」と云ったのが、もみじ饅頭の始まりだという。 さて、その人物の名とは。 正解は、伊藤博文。 なるほど。(実は、エ、エ~?) しかし、広島出身のおいらでも初めて聞く話しだなぁ。恐らく後世の作り話しなんだろうなぁ。 中国地方の語源 今月初旬、おいらの高校時代の同窓会兼忘年会が開催された。旧友(医師)が学会参加のため東京に出てくるのである。それにかこつけて、皆が新宿に集まったのである。 そのときの話題はさておき、誰かが広島を含めた地域を何故中国(地方)と呼ぶのだろうかと独り言を述べたのである。 話題が乱れ飛んでいたので、この質問は皆に無視されたのだが、おいらには引っ掛かった。確かに、何故広島を中国と呼ぶのだろう。 この件は放っておいたのだが、最近になって疑問が大きくなった。 困ったときのウイキペディアである。早速、チェックした。ところが、驚いた。ウイキペディアでも、中国(地方)の由来がはっきりしないとしているのだ。 へぇ、そうなんだと、思いながらも読み進むと、一説には古代、畿内を中心に令制国を「近国」「中国」「遠国」に区別したとき、この地域のほとんどが「中国」に相当したからではないかとしている。 なるほど、中国地方は畿内から見れば近国ではない。さりとて、遠国でもない。 だから、中国なのか。う~む、安易である。 ウイキペディアの受け売りを続けると、文献上の早い例では、1349年に足利直冬が備中、備後、安芸(広島)、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗したときの題目が「中国探題」だそうだ(「師守記」「太平記」)。 その後、南北朝時代の中頃には、中央の支配者層に現在の中国地方と四国を含めた範囲がほぼ「中国」として認識されていたという。 なるほど、そうなのか。 なお、当日の宴会で出た中国にまつわるその他の話し。 中国新聞は広島の新聞。中国銀行は岡山に本店のある地銀である。注意しなければ、中国新聞はチャイナ・ニュース、中国銀行はバンク・オブ・チャイナと思われる可能性がなくもない。 だからであろうか、中国銀行東京支店には、中国(中華人民共和国)の銀行ではない旨が表示してあるという。納得。 以上、しょもない話題であるが、疑問が解けるというのはささやかな喜びでもある。 広島帰省雑感(前編) 母の介護で広島に帰省し、少し時間ができると被写体を探す。 写真は母が入所している施設の近くに咲く向日葵と鮮やかな色の花であるが、こういう写真を撮ろうとすると避けて通れないのが電線の問題である。 電線が写ると風景写真は台無しになる。 そのため、電線を写らないようにしてアングルを設定しなければならないので、一苦労するのである。 考えてみれば、横浜であってもそこら中が電線だらけである。日本という国は、到る所に電線を張り巡らせているのである。地下に電線を埋設するという知恵は回らなかったらしい。 実は、上の写真も見方を変えればこういう風に電線が映ってしまうので、興醒めである。 難儀やのぅ。 黒沢明監督が七人の侍ロケで電柱を切ってしまえと怒鳴ったのは正しい。 皆、この問題をどうやって解決しているんだろうねぇ(この項続く)。 広島帰省雑感(中編) 写真の続きである。 母が入所している施設は緑が多い。 内庭も大きく取ってあり、自然に恵まれている。そうだからだろうか、春先にはツバメが多くの巣を作って、子育てをする。 丁度巣立ちで親ツバメが子ツバメに飛び方を教えているのだろうか、ここ数日はツバメが乱舞しているのである。 こういう景色は滅多に見られるものではない。しかも、これは心が和む。 だが、この写真の撮り方も難しい。 何せ、相手は空中を飛んでいる鳥なのである。遠景なら問題はないが、近くで撮ろうとすると直ぐにファインダーから遠ざかってしまう。 こういうときにプロなら一発で決めるんだろうなぁ。 閑話休題。 平成3年3月に広島の新交通システム「アストラムライン」の工事を行っていたとき、モノレールの軌道を支える橋桁(支柱)が道路上に落下して15人が死亡するという大惨事があった。 新聞やテレビで大騒ぎになったので覚えておられる方も多いと思うのだが、先日、上安駅のそばを歩いていたら、慰霊碑が設置されていた。 何の慰霊碑だろうと後ろを覗いたら、件の事故の慰霊碑だと分かったのである。亡くなった方にはこんな慰霊碑を建てられても意味がないかも知れないが、事件を風化させないという点では意義のあるものだろう。 合掌(この項続く)。 広島帰省雑感(後編) 奇妙な物語。 今回の新幹線は帰路、グリーン特典でグリーン車に搭乗した。グリーン車に乗っての最大のメリットは空間の所有である。隣の席にほとんどの場合、人が座らないのである。 しかし、今回は様子が違った。 新大阪で隣のB席にワイルドな兄ちゃんが座ったのである。おいおい、今日は満席かよ、と思ったら、依然、他の座席は空いたままである。 これを解説すると、おいらは王手をされた将棋の王みたいなものである。おいらだけが雪隠詰めなのである。 しかし、この兄ちゃん、目がどうも普通じゃない。最初からあたりをきょろきょろしながら、おいらの目を見て、後ろの座席に行き、また、戻っておいらの席の隣に座ろうとしたのである。 おいらは云った。 「えっ、こんなに空いているのに?」 そうしたら相手はちと気色ばんだのだ。こういうときの変わり身の早さはおいらの得意芸である。 「どうぞ、どうぞ」 京都駅で満席なんだろうと思った。これだから行楽シーズンは大変だと感じたのだが、今は梅雨の最中、変じゃのう。しかし、京都駅でもグリーン車はガラガラである。 ん? 座席の間違い? 早く、検札、来てよと念じていたら、やって来た。 だが、座席は間違っていないのである。えっ? そうしたら検札のおねえちゃんが云ったのである。 「後ろの席の窓側が空いていますので、お移りいただいて結構ですよ」 そうこなくっちゃ。 しかし、男はそのまま座るのである。男の体臭が迫って来る。しかも、男はそのまま寝ようとするのである。 これは、ある意味で恐怖映画である。 そっと男の様子を確認した。無論、悟られないようにである。身なりは悪くはない。安心だろう。では、おかまか? しかし、おいらも狙われるような年齢ではない。 じゃ、何だろう。 腹が立ったので「すいません」とトイレに立った。 その後、元の席に戻らず、同じ列のC席に座って様子を見ていたら、件の男性、名古屋で下車して行ったのである。 やれやれ、貞操を奪われなくて済んだわい(笑)。 これで分かったこと。 新幹線の座席指定購入のプログラムは、実際に乗車している客を無視している可能性があるようだ。早い話しが、二列空いている席を確保することを優先しているのである(または、グリーン特典は軽視されている)。 ま、今更驚くことはないが、ここにもJRの驕りがあるのを見るような気がして、おいらはまたJRの体質が好きではなくなったのじゃよ(この項終り)。 広島帰省雑感(12年8月編その1) 母が入所している施設は小高い丘の中腹にある。 その施設にツバメが飛んでくるのである。 施設の構造はL字型になっており、2階には沢山のツバメの巣がある。その巣を目がけて十数羽のツバメが毎日飛来してくるのである。 それだけ書けば何と云うこともないが、母が入っている部屋は窓ガラスが大きく、その窓ガラスの真上に巣があるものだから、目の前までツバメが飛んでくるのである。しかも、数羽が乱舞するのである。 これは何とも云えない光景である。 残念ながら現在では母は寝たきりで、意識もはっきりしているとは云えない状態なので、母が好きだったツバメの乱舞を観させてやることができない。 ツバメは9月に入ると越冬のためフィリッピンなど南方に渡る。来年もまたこの巣に戻って来て欲しいと願うものである。 補足。 ツバメの写真を撮るのは難しい。 兎に角速いし、素早い。上の写真は、シャッター速度4千分の1秒での撮影である(この項続く)。 広島帰省雑感(12年8月編その2) 広島からの帰路、新幹線のぞみ車内で食したのが「W健太弁当」 広島駅新幹線構内でのお弁当売り場の主力商品として販売されている。 丁度、広島駅弁の係の人がいたので話しをしたら、栗原が怪我で欠場しているためなのか、売り上げが伸び悩んでいるという。 そうか、栗原は忘れ去られようとしているのか。しかし、前にも書いたが、おいらはグリーン車で栗原と同じ車両に乗ったことがあるという(だが、ただそれだけの)間柄である。 喜んで購入したのである。 さて、「W健太弁当」にはシールが1枚入っている。前健か栗原のである。 係の人にシールの選別方法を聞いたが、工場からの出荷前に包装されているので、分からないという。 ただ、耳打ちをして、 「前健シールの方が多めに入っています」 とだけ教えてくれた。 お~、そうか。それなら、栗原シールが欲しいのぅと手にした弁当は栗原シールの当たりであった。 W健太というだけ、ボリューム満点の弁当であったことだけは付け加えておく(この項終り)。 「おしい! 広島県」 昨日、介護帰省をしていた広島から戻った。母は穏やかな顔をしてベッドで横になっていた。一安心である。 さて、下の写真は、広島市内本通りのアーケードにかかる垂れ幕。 「おしい! 広島県」である。 このコピー、有吉が考えたとしたら、秀逸である。 普通のコピーライターが考えるのであれば、「おいしい広島県」である。しかし、それでは、陳腐そのものでしかない。 さらに、「おしい」は本来「惜しい」と書くのだが、このコピーを漢字にすると、意味が半滅する。 「おいしい」と思わせて、「おしい」とするところが憎いのじゃがのぅ。 有吉、テンプラ(=一瞬芸)かと思ったが、どうやら本物の片鱗が垣間見えてきた。 「おしい! 有吉」と云われないようにすべし。 10月22日(月) 謎の不良中年 柚木 惇 記す 本日と明日はお休み 本日と明日は休日につき、お休みです。 写真は、昭和34年の広島市中区八丁堀の映画館風景。当時は映画館が隆盛でした。 しかし、現在では広島もシネコンが隆盛で、単独館の閉鎖が相次いでいます。 その中で、福屋百貨店8階にある広島八丁座という映画館が奮闘しています。同百貨店1階「八丁堀映画物語」のコーナーに、八丁堀界隈の昔の映画館の写真が展示してあり、目を楽しませてくれているのです(写真下)。 ところで、おいらは思わぬ秋風邪を引いてしまいました。特に喉に来る症状でこれが大変キツイ。皆様もお気を付けください。 それでは、皆様よろしゅうに。 平成24年10月27日(土) 謎の不良中年 柚木惇 記す 広島なんじゃこりゃ (昨夜遅く、広島から帰浜しました。本日よりブログを再開します。) さて、広島に帰省して、なんじゃこりゃと驚いたこと2題。 まずは、写真上のお面。 広島アストラムライン「安東駅」(「あんどうえき」ではない。「やすひがしえき」と読む)近くの雑貨屋(?)建物に陳列してある。 雑貨屋の中ではなく、外に陳列してあるところが憎いねぇ。 この店、おいらが母の介護に行く途中にあるのだが、残念ながら、おいらの時間帯と合わないのでいつも店が閉まっているのじゃよ。 ただ、この店、タダものではない。骨董類を常備している雰囲気である。いつか入ってみたいものよのぅ。 次は、単なるスーパ-マーケット(「フレスタ」)での駅弁祭り。 たまたま、この駅弁を発見した。 噂の、旭川駅「蝦夷わっぱ」が広島で食べれるとは思わなんだ。 横浜への帰路の車中(今回はポイントが溜まって、グルーン車)で食べたのが、写真のとおり。 う~む、やはり「蝦夷わっぱ」じゃわぃ。旭川駅(JR函館本線)の駅弁が山陽新幹線の車中で食べれるというのは、奇妙な優越感じゃのぅ。甘露、甘露(明日は「再び京都訪問」の後編をお送りします)。 すぐ後ろに山がある広島市 昨日、介護帰省をしていた広島から戻った。今回も母は穏やかな顔をしてベッドで横になっていた。一安心である。 さて、写真は、横浜への帰路、新幹線車中から見たマツダズームズームスタジアム(新広島市民球場)である。 日が長くなったので、夕方でも写真撮影ができたのである。しかし、云いたいのはそんなことではない。 球場のすぐ後ろに山が写っているのである。 このブログの読者のために解説すると、新広島市民球場は広島駅の旧貨物ヤード跡地に建てられている。 つまり、広島市の中心部に位置しているのだが、広島市は山と山との間の三角州の上にできた街であることから、後方を含む三方を山に囲まれている地勢である(前は無論、瀬戸内海である)。 う~む、頭ではそのことを理解していたのだが、現実にここまで山が迫っているとは思わなんだ。 これでは、やはり、広島空港を市内に置いておくわけにはいかないのじゃのぅ(遥か彼方に広島空港はある。成田空港と同じである)。 2月18日(月) 謎の不良老年 柚木 惇 記す 本日と明日はお休み 本日と明日は休日につき、お休みです。 写真は、再び新幹線車中から見た新広島市民球場。 先週「すぐ後ろに山がある広島市」として広島市民球場の後ろの山を紹介しましたが、「安丸27」さんから、山は島だとして次のようなコメントをいただきました。 「あれは山ではありません。島だったものが、海岸線が下がって山として残ったものです。 日本全国、干拓や埋め立てのためこのような事になっているのではないでしょうか」 ひえ~、そうだったのかと驚きましたので、お詫びして訂正します。そうか、元は島だったのか~。 それでは、皆様よろしゅうに。 平成25年2月23日(土) 謎の不良老年 柚木惇 記す 広島帰省雑感 昨夜、広島から帰浜した。 広島での雑感その1。 所要があって広島旧市内(市街地のこと)に出向いたので、市内唯一の古書店、アカデミア書房を訪ねた。この古書店は本通りに本店があり、紙屋町に分店を置いている。分店は、カープ関係の書籍やグッズに強い。 さて、その分店で額装されたカープ選手のサインなどを眺めていると、あれっと思うものを発見した。 そう、昭和32年に広島市民球場が落成したときのチケットである(昭和32年7月24日付)。 今から55年前のことであり、外野席の入場料は100円。 こけら落としのチケットとは珍しい。時代を感じるのう。 なお、このチケットは非売品である。陳列する価値が充分にある歴史的資料であろう。 広島に立ち寄られたら是非とも顔を出されると良い(紙屋町交差点から徒歩3分)。カープファンならずとも、野球好きの人には見逃せないお宝である。 雑感その2 市内をバスで移動中、旧市民球場のそばを通った。12月のときの光景はまだ、取り壊しの最中であった。 それが、今回見ると更地の上にパビリオンもどきが建っており、「ひろしま菓子博覧会2013」とある。 まだ、跡地の利用は決まっていないようだが、こういう使い方は歓迎である。 広島は駅前の再開発で、市のメインが駅前に移っている。マツダスタジアムなどが出来、人の流れが変わったのである。 紙屋町や八丁堀など県庁や広島城を囲む市の中心地に再び人が集まるかどうかは、この球場の跡地の再開発如何である。 市有地ということから役所仕事で決めるのではなく、民間の叡智を結集し、コンペ方式で決めるなど、拙速にならず、真の有効利用を考えて欲しいものである。 新幹線から望む富士山 今回の介護帰省で、広島への「のぞみ」搭乗中のことである。 新幹線の車内アナウンスが突然あったのである。 三島を過ぎたあたりである。時間は朝の7時20分ごろ。 「進行方向右手に絶景の富士山が見えます」 おいおい、こんなの初めてだよ。 今まで数えきれないほど新幹線に乗車しているけど、富士山の眺望をアナウンスするなんてなかったのだ。断言する。 飛行機なら富士山の絶景をアナウンスするのはアタリマエである。それが客へのサービス精神である。 しかし、かつてもこのブログに書いたように国鉄はそのようなサービスをしたことがない。案内マニュアルにも書いてないのだろう。 でも、12月14日(土)のぞみ5号の車掌は違ったね。 はっきりと、富士の絶景をアナウンスしてくれたのである。 その景色が上の写真である。 おいらはデッキに走り、パチリ。新幹線の車窓からこのような絶景はなかなか撮れないよ。特に、手前の住宅が動いているように見えるのが面白い。 ありがとう、粋な計らいの車掌さん。 JRもまだ捨てたものではないのぅ。 おいらの好きな広島弁 広島弁が好きである。 実生活で使うことはほとんどないが、それでも母の介護帰省で広島に帰ると自然に広島弁が出ることがある。 おいらの高校時代のことである。敬愛する檀上先生(英語担任)が東京に出張したとき、映画館に入り、 「こりゃ、椅子がめげとるのぅ」 と、云ったら、誰もそれを理解してくれなかったという話しを面白く聞いたことを思い出す。 「めげる、めぐ」 とは、精神的に負けることではない。 壊れる、壊す、と云う意味である。 「みてる」も難しい。 これは、なくなる、と云う意味である。 ま、こういう言葉は洒落で使うしかないが、「いたしい」などは日常使っても良いような気がする。 いたしいとは、難しいと云う意味である。女性が「いたしいよ」と使うと、情緒たっぷりじゃのぅ。 だが、おいらは、東京くんだりまで出てきて方言を使うやつは空気が読めない奴だ、と教わって来た人間である。 だから、今でも標準語で通しているが、実のところ、方言は奥行きが深い。アナログだと言い換えても良い。それは、場合によってはファジイでもあり、趣が深い。 その方言も年寄りが死んでしまえば誰も使わなくなる。絶滅させるには惜しいのぅ。そろそろ方言が復権しても良いのではないだろうか。 「鞆の浦」探訪(前篇) 山陽本線でF市に着いたのが、昼の12時8分(下の写真は夜の福山城)。 駅の観光案内所まで走り「鞆の浦」の地図とパンフを貰い、荷物をコインロッカーに入れる。 駅前始発の鞆港行きバスの発車時間は12時16分。 そのバスに飛び乗ってパスモ(首都圏での前払い交通カード)をタッチすると、ブブーとなって使えない。パスピーでないとだめだと云う。どうやら一部の地域(乗り物?)では全国共通になっていないようだ。 とまれ鞆の浦までのバスの乗車時間は約30分。芦田川など高校生の頃、見慣れた景色を左前方に観ながらバスは南下する。 バスの中でパンフレットを開き、あらかじめ立てていた予定を反芻する。 鞆の浦は江戸時代の街並みがそのまま残っている街である。港があったので瀬戸内海の水運の要所であり、古くから栄え、遊郭もあったほどの繁盛した街だ。 港には今でも江戸各藩の蔵がそのまま残っているし、最も有名なのは海援隊のいろは丸が鞆沖で紀州藩の明光丸に衝突され沈没、この鞆で坂本龍馬が紀州藩と直談判したことである。 龍馬のいろは丸事件のこと、特に「相手が天下の紀州藩ゆうちょっても心配するな。ワシらには世界の万国公法がついとるきに」は司馬遼太郎の「龍馬が行く」でおいらがなるほどと膝を叩いた事件である。 いろは丸展示館や龍馬が逗留した場所も残っているというから、これは探訪せずにはいられない。遊郭がどこにあって今はどうなっているかも知りたいではないか。 それに、ここ鞆の浦にはあの山中鹿之助の首塚もある。今、やっている大河ドラマでも山中鹿之助は尼子の再興で頑張っている。これは是非とも供養せねばならぬ、そう思っているうちにバスはするすると鞆観光情報センターに到着した(この項続く)。 「鞆の浦」探訪(中篇) 鞆観光情報センターは、バス停の終点である鞆港の手前に位置している。ここで降りた理由は、鞆の浦を探訪するにはここを起点とするのがベストだからである。 観光情報センターに立ち寄り、内部を見学すると鞆鉄の歴史が展示してある。昔はここをボンネットバスが走っていたのだ(写真上)。 案内員のおばちゃんに鞆の浦の見学ルートを訪ねると「狭いからどこからどう歩いても大丈夫」と頼もしい返事をいただく。実際、おいらも歩き回ったのだが、どこに着くのも直ぐであった。 最初に訪問したのが、鞆の浦の向かいに見える弁天島と仙酔島が一望できる「対潮楼(たいちょうろう)」=福禅寺に隣接する客殿である。 ここから観た景色が下のとおり。 この対潮楼は、元禄年間に建立されており、漢学者や文化人交流の場であった。特筆すべきは、朝鮮通信使のための迎賓館としても使用されていたことである。 正徳元年(1711年)にここを訪問した朝鮮通信使は、「日東第一形勝」として、日の昇る東の国(日本のこと)で一番の景色と絶賛したのである。 おいらも対潮楼の座敷に座ってこの景色を眺めたのだが、柱が額縁となるのである。これは絶景であったのぅ。 そして、おいらも物好きではあるが、土地のお年寄りを見付けて聞いてみると、この対潮楼の裏手が遊郭のあったところだというのである。 対潮楼を右手に残してこの道をまっすぐ行くと、昭和33年までは遊郭が並んでいたのである。 瀬戸内海の水運の要である鞆の浦の遊郭は、江戸時代から繁盛したようである。 出島勤務のオランダ人ケンぺルによれば、元禄4年(1961年)の「江戸参府紀行」に鞆の遊女屋の記述が残っている。また、「諸国遊所見立角力表」(寛政年間)には、大阪・江戸・京都に次いで鞆の浦の遊郭が4番目に名前を連ねているのである。 突き当たると遊郭らしい建物がある。 今でも風情があるのぅ。おいらは、しばしここに佇んだのである(この項続く)。 「鞆の浦」探訪(後篇) 引き続き鞆の浦を探訪する。 やはり、坂本龍馬が紀州藩と談判した場所を観たい。遊郭のあった場所から遠くないところに魚屋万蔵宅がある。ここで談判をしたのである(写真上)。 坂本龍馬が匿われていた枡屋清右衛門宅も残っている。 この家の二階の奥の屋根裏部屋が隠れ部屋になっていたのである(入り口が分からないように偽装されている)。 港の中央である常夜燈まで行く途中は、江戸時代の建物がそのまま残っている路地である。 常夜燈までの花魁道中と常夜燈をバックにした花魁絵巻の画像を探したら次のようなものがあった。絵になるのぅ。 常夜燈のそばに沈没したいろは丸の海底の状況を復元した展示館もある。海の底から引き上げられた船の備品や伊万里茶碗なども展示されている。 鞆の浦を歩くとこういうモダンな建物も残っている。 最後に、静観寺山門前にある山中鹿之助の首塚である。 現在の大河ドラマで、山中鹿之助のいる上月城は毛利軍によって包囲され、秀吉は荒木村重らとともに上月城の救援に向かうが、信長から上月城を捨て、三木城の攻撃を優先するよう命じられる。このため、上月城は孤立無援となり、尼子主従は毛利軍に降伏することになる。 このとき尼子勝久は切腹を命ぜられ、鹿之助は生け捕りとなり、備後の鞆の浦に陣取る毛利輝元の下へ護送される途上の阿井の渡(岡山県高梁市)にて謀殺されるのである。 鹿之助の首は、毛利輝元と毛利氏に身を寄せていた足利義昭(鞆に滞在)の首実検に供するため鞆に送られたのである(なお、阿井の渡には胴塚がある)。 当時、静観寺の住職は毛利の敵方であった鹿之助の味方をするわけにいかなかったが、首を丁寧に清め、山門前に首塚を造って供養したとされる。 頼山陽や勝海舟が日本人の誇りとした山中鹿之助。鞆の浦にひっそりと首が置かれているとは知らなんだ。合掌。 さて、時間も押してきた。いよいよ高校時代の友人たちと会えるミニ同窓会である(この項終わり)。 鞆の浦「F君邸」に集う(前篇) 平成26年4月12日、H大学附属F高校のミニ同窓会が鞆の浦の小高い丘の上にある「F君邸」にて開催されたのである。 しかし、この話しは、ミニ同窓会が開催されたという単純な話しではない。 風光明媚なF市の鞆の浦を一望できる、F君の別荘の改築が完成し、そのお披露目を兼ねての同窓会なのである。 まずは、このF君邸の生い立ちから始めねばなるまい。 大正時代から昭和初期にかけて活躍した高名な建築家に藤井厚二氏がいる。 氏は地元F市の出身で東京帝国大学を卒業後竹中工務店に勤務、後に独立して建築家となる。そして、彼の実家であった「くろがねや」の別荘として昭和初期にこの建物を設計したのである。 別荘だけあってこの建物からの眺めは絶景である。 だが、所有者であったくろがねやはこの建物の維持管理に興味がなかったとみられ、何十年も放置されたことから倒壊寸前にまでなっていたという。 その建物を高校時代の同期同窓であるF君が縁あって購入し、今般、再生したという別荘なのである。 再生をしたのは、地元の建築家である前田圭介氏である。尊敬する藤井厚二の氏の設計を生かして、現代風に生まれ変わらしたのである(施工は、地元の大和建設)。 さて、では何故、F君がここに別荘を持とうと思ったかである。 F君の鞆の浦にまつわる話しは、高校生のときまで遡る。 誰ともなくクラス仲間が別荘を建てるのであれば風光明媚な鞆の浦に建てたいという話しをしたとき、なぜか皆が盛り上がり、F君の心の中にいつかはこの地に別荘を建ててみたいという気持ちが湧いていたのである。 後に、彼がご両親を鞆の浦向かいにある仙酔島の旅館にご招待したときにご両親から大層喜ばれ、彼にとってこの地に特別な気持ちが湧いていたとしても不思議ではない。 彼のご両親もこの建物を喜ばれているだろう。彼は親孝行でもあるのだ。 とまれ、F君は東京にいる身ながら、この別荘に惚れてリフォームをしたのである(この項続く。なお、明日は昭和天皇誕生日につきお休みをいただき、この続きは30日(水)となります)。 鞆の浦「F君邸」に集う(後篇) F君はこの別荘に惚れて購入し、今風にリフォームしたという話しの続きである。 その意気や良し。彼は一部上場企業の大手証券会社の専務まで上りつめ、昔で云うところの立身出世を成し遂げた男である。 したがって、冨の再配分という観点からも、彼がこの別荘のオーナーになるのは相応しい。 と、いうことは、学友であるおいらたちがそのご相伴に預かり、この別荘に招待していただいても問題はないということである(ほんまかいな)。 ま、こういうことでもない限り、見渡す限りの絶景とこの庭園、そしてプチ迎賓館とも云えるこの建物を観る機会はあるものではない。 さて、おいらは鞆の浦探訪を山中鹿之助の首塚詣でで終え、彼の別荘に足を速めた。集合は当日の午後4時である。 ちょっと早めに訪問し、別荘からの眺めや別荘内を写真に撮りたいのである。 小高い丘の上に目指す別荘はあった。階段を上る。 門がまた見事である。 庭の木の枝振りが松のようで容姿が良い。松まで植木屋に頼んで植樹したかと観ていたら、S君がこりゃモミジだよと教えてくれた。 麓を見下ろす庭からの眺望は素晴らしい。彼の数年前の年賀状にこの場所からの景色を撮ったものがあったが、そのときにあった電線がない。地中に入れたのだろうか、心憎い演出である。 また、山側の庭園も唸る。建築家の前田圭介氏はこの別荘が庭園とセットになっていることを見逃してはいないのだ。 建物内に入る。入り口の景色。 廊下には小石が敷き詰められている。通路中央は寄せを打って畳を敷くという風流さである。 昭和初期に建てられたにもかかわらずサンルームまである。 なお、このミニ同窓会に集まったメンバーは30名弱。会費男5千円、女3千円。盛り上がったのは云うまでもない。持つべきものは良き友である。 夜になっても宴席は続く。その夜景はライトアップされて、このとおり。いや、素晴らしいわ。良き友、良き酒、良き別荘。 幹事役のS君とS君の御内儀、それにN君有難うございました。最後に、ホストのF君、本当にお世話になりました(この項終わり)。 |